ひまわり

ひまわり

ひまわり

ひまわり 紙本墨彩 1988 111.0×73.5 個人蔵

 

――ヒマワリなども自分で種を蒔いて育てなければどうしてもうまくいかない。花の咲き始めたとき、中に種が次第に実っていくときの時間的な変化を見つめて画面に取り入れていかないと、ただ綺麗ごとで単調なものになってしまうことが多いのではないか。例えばたわわに実った姿と、絢爛と咲き誇る様子をダブらせてひとつの画面に表現してみたりする。毎日見ていると「今だ」と思うときがあるものである。大げさな言い方かもしれないが、生々流転は何処にもある。このようなことを私は「時間を描く」と言っているのである。(文芸春秋刊『随想』より抜粋)
――私は本格的に水墨画を始めてからまだ十五、六年しか経っていない。まだ水墨を語る資格がないかもしれないが、その道に入るまでには色で散々苦労したから、それが準備期間だったともいえる。また水墨といってもある程度絵具も使う。かなりの割合で絵具を使うこともある。ではどの程度の絵具を使うのが水墨と言えるのかは難しい問題である。
牛乳に水をだんだん加えていき、どこから水になるのかという議論と似たようなものである。格別詮索するような問題ではない。
それでいて水墨画は色絵とはずいぶん世界が違う。どこが違うかといえば一言ではいえないが、色という感情的表現を否定したところから生ずる象徴的世界であって、それが精神的な世界へつながる可能性をかなり秘めているということであろう。水墨画は音楽の楽器の世界でたとえていうならピアノではないか。
ピアノはオーケストラの中でひとつの役割を果たすこともあるし、ピアノ単独でも立派に完全な音楽世界を表現することも出来る。むしろそのほうが、人に強い感動を与えることさえある点が水墨画に似ているということが出来る。(文芸春秋刊『随想』より抜粋)


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