新雪の鳥海山
―-とにかく見える所だけでも描こうと、紙を広げて描いていくうちに、何とありがたいことに稜線にかかっている雲も次第になくなって、その美しい全容を現わしてくれた。曇り空に白い頂を見せて、無風状態の中でまるで空中にスライドでも写したように浮かび上がる鳥海山は、私には神の姿のように見えた。
夢中で鉛筆を走らせていくうち、だんだんと嬉しさと感動で全身を包まれていくのを感じて、寒さも忘れてその姿を写すことで緊張の連続である。その一分、一分が二度とない貴重な時間であった。(文芸春秋社 『随想』より抜粋)
――私は本格的に水墨画を始めてからまだ十五、六年しか経っていない。まだ水墨を語る資格がないかもしれないが、その道に入るまでには色で散々苦労したから、それが準備期間だったともいえる。また水墨といってもある程度絵具も使う。かなりの割合で絵具を使うこともある。ではどの程度の絵具を使うのが水墨と言えるのかは難しい問題である。
牛乳に水をだんだん加えていき、どこから水になるのかという議論と似たようなものである。格別詮索するような問題ではない。
それでいて水墨画は色絵とはずいぶん世界が違う。どこが違うかといえば一言ではいえないが、色という感情的表現を否定したところから生ずる象徴的世界であって、それが精神的な世界へつながる可能性をかなり秘めているということであろう。水墨画は音楽の楽器の世界でたとえていうならピアノではないか。
ピアノはオーケストラの中でひとつの役割を果たすこともあるし、ピアノ単独でも立派に完全な音楽世界を表現することも出来る。むしろそのほうが、人に強い感動を与えることさえある点が水墨画に似ているということが出来る。(文芸春秋刊『随想』より抜粋)