籠牡丹

籠牡丹

1986年 紙本墨彩 86.5×61

1986 紙本墨彩 86.5×61

—ー次第に蕾が膨らんでやがて開き始めてから三日は咲いている。それをジッと執拗に観察しているとなかなか面白い。初めのころの清純な匂うような美しさから次第に成熟して豊満となり、果ては己の重さに耐えかねて崩れた姿となり、やがて一つ、二つと花びらが散っていく。私は絵に描く場合、その刹那の形をとらえるのではなく、このような時間の経過による観察の映像を繰り返し脳裏に刻んでそのイメージをダブらせて一枚の画面に描いたりする。(文芸春秋刊『随想』より抜粋)

――私は本格的に水墨画を始めてからまだ十五、六年しか経っていない。まだ水墨を語る資格がないかもしれないが、その道に入るまでには色で散々苦労したから、それが準備期間だったともいえる。また水墨といってもある程度絵具も使う。かなりの割合で絵具を使うこともある。ではどの程度の絵具を使うのが水墨と言えるのかは難しい問題である。

牛乳に水をだんだん加えていき、どこから水になるのかという議論と似たようなものである。格別詮索するような問題ではない。

それでいて水墨画は色絵とはずいぶん世界が違う。どこが違うかといえば一言ではいえないが、色という感情的表現を否定したところから生ずる象徴的世界であって、それが精神的な世界へつながる可能性をかなり秘めているということであろう。水墨画は音楽の楽器の世界でたとえていうならピアノではないか。

ピアノはオーケストラの中でひとつの役割を果たすこともあるし、ピアノ単独でも立派に完全な音楽世界を表現することも出来る。むしろそのほうが、人に強い感動を与えることさえある点が水墨画に似ているということが出来る。(文芸春秋刊『随想』より抜粋)


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